Saturday, June 8, 2013

「H氏賞事件」について(1)―小田久郎『戦後詩壇私史』をもとに

 小田久郎の『戦後詩壇私史』(新潮社、1995)は、思潮社創業者・『現代詩手帖』創刊者である著者が、戦後詩壇ジャーナリズムについて、スキャンダラスな側面まで踏み込んで二段組み 500 ページで、相当あけすけに書いたとても面白い回想録だ。当時の文章が大量に引用されているのもいい。多くの興味深いエピソードのなかでも、強く印象に残ったもののひとつが、「H氏賞事件」だった。

 この事件は、単にゴシップ的な意味で興味深いだけでなく、戦前からの有力詩人の主催する同人誌が形成していた「宗匠」的・「結社」的な詩壇のありかたが崩壊して、『詩学』・『ユリイカ』・『現代詩』・『現代詩手帖』といった商業誌を中心とした詩壇ジャーナリズムが本格的に詩の世界の中心となる過渡期の象徴的な事件でもあったそうだ。

 「H氏賞事件」で検索してみても、この本に引いてある資料と同じものを引いて詳しく書いてある記事は見当たらなかった。(日本現代詩人会のサイトには「成り立ち・歴史」>「H氏賞事件」という記事が上がっている。)なので、本エントリーで、有力同人誌「時間」主催者で、モダニズムの詩人として戦前から活躍していた北川冬彦(1900-1990)が関わった「H氏賞事件」について本書のpp.149-163(第十章「遠き道を行くが如し―『現代詩手帖』の出発 1959」の一部および第十一章「既成詩壇の崩壊―H氏賞事件と詩壇ジャーナリズム 1959」)をもとにまとめてみたい。

 事件は、現代詩人会(現、日本現代詩人会)主催の第九回H氏賞の選考過程を巡って、三回に渡って怪文書が幹事長の西脇順三郎のもとに送りつけられたことと、そのあとのスッタモンダからなる。事件自体は、あまりすっきりとした解決を見たとは言えないようだが(怪文書の筆跡が子供のものだったので、追及の手が緩められたという)、この結果として戦前からの有力詩人たちが影響力を失う―「既成詩壇の崩壊」―ということになった。

この事件を契機に現代詩人会の勢力は急速に後退し、圧力団体としての神通力をあっという間に失ってゆく。既成詩人の輪はばらばらになり、戦後の詩人、第三期の詩人たちが「ユリイカ」「現代詩」に精力的な仕事を展開して、実質的に詩壇の中枢を占めるようになる。
(p.151)

では、詳しい内容を見ていこう。まず、事件の経過を要領よく追った伊達得夫の文章(初出、「ユリイカ」、1959年7月号)を『戦後詩壇私史』から孫引きする。(『戦後詩壇私史』、pp.156-157)

4月1日―朝、現代詩人会幹事長西脇順三郎氏宅へ無署名の一通の手紙が届けられた。内容は第9回H氏賞の選考のための案内状を現代詩人会副幹事長木原孝一氏が幹事一同に送ったが、その案内状に吉岡実詩集「僧侶」茨木のり子詩集「見えない配達夫」安水稔和詩集「鳥」の三冊を特に有力候補として書いたのは選挙違反ではないかという主旨であった。 
4月2日―朝、現代詩人会幹事御一同様の宛名で前日と同様の内容の匿名の手紙が配達された。その夜、神田で現代詩人会の幹事会がひらかれた。H賞選考のための第一回会合である。席上木原孝一氏は「三名を特に案内状に書いたのは、全会員からのアンケートに現れた二十三冊の詩集のうち票の多いものを上から三点書いたもので幹事諸氏に少なくともこの三冊の詩集はよく読んできてほしいという意味で悪意はなかった。此処で改めて集計をとりたいと」弁明した。席上、土橋治重氏と三好豊十郎氏が集計したところ果たして、一位「僧侶」二位「見えない配達夫」三位「鳥」で四位北川多喜子氏の「愛」であった。
4月3日―吉岡実氏は木原孝一氏に対して「自分は現代詩人会に入りたくないから、H賞の有力候補だそうだが、出来ることなら辞退したい」 とのべた。
4月5日―朝、西脇順三郎氏邸のポストにはまた匿名の手紙が入っていた。それにはさきに送った投書を何故先日の幹事会の席上で読みあげなかったか? 木原氏の醜行為をインペイするためではないか―という意味のものであった。同日夜、第二回幹事会がひらかれたが、西脇氏は席上投書を読み上げ、木原氏は再び弁明。なお、「不服があればこの席ではっきり云ってもらいたい。匿名の投書の差出人は幹事の内の誰かであることは、いきさつに悉しい点から見て明らかである」と述べた。しかし応答はなかった。直ちに無記名単記投票が行われ、有効投票十三票、「僧侶」七票、「愛」五票、「吉本隆明詩集」一票であった。
5月16日―村野四郎氏は票が、吉岡氏の「僧侶」に決定したことは現代詩人会としては珍らしく 妥当な授賞だ、という意味のエッセイを東京新聞に発表。
5月27日―H賞授賞式が東京草月会館でひらかれた。当日まで受諾を保留していた吉岡氏も周囲のすすめで受賞に踏み切り会場において賞状、賞金を受けた。その日の朝日新聞東京版はゴシップ欄に木原氏の行為が選挙違反だ、匿名の投書を怪文書と称したのはけしからんと言っている一部の「不満派」が現代詩人会にある。かれらの不満はいまもくすぶりつづけている―という主旨の記事をのせたその記事のソースは「現代詩人会幹事T」という署名の投書で、同様の文章のものが、都下各新聞にくばられていた。
お子様むきクイズ―匿名の手紙というものは恋文でなければ常に怪文書である。この怪文書の主、月光仮面のオジサンは誰か?
ヒント1 それは吉岡氏の受賞に反対の現代詩人会幹事である。
ヒント2 現代詩人会幹事のうち吉岡氏の受賞に反対の者は、北川多喜子氏の投票したものである。「詩学」 6月号によれば北川多喜子氏を推薦したのは当の御主人、北川冬彦、土橋治重氏、上林 夫氏、緒方昇氏らである。 
 ともかくこんなゴタゴタに匿名の賞金提供者H氏もすっかりアキレただろう。最近、金子光晴、草野心平、中桐雅夫の各氏は現代詩人会を退会、茨木のり子氏は入会慫慂を辞退。「詩のことを議論しないで手続きだとかなんだとか、つまらんことばかりあげつらう詩人会なぞ意味がない」と草野氏は語った。

とりあえず、今日はここまで。

 

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